【北摂】冬枯れモードの1月の舎羅林山


【山 域】北摂・舎羅林山(264.5m)
【日 付】2013年1月13日(日)
【コース】能勢電鉄・多田駅-「八廣山 五社大神鎮座」-舎羅林山
     -北路-展望岩-平野駅-多田駅 
【メンバー】MICKEY・矢問 
今日は昼から天気が悪くなると言う。昼までにサッと登って下れる里山ハイクにした。
二人とも昨日の筋トレで筋肉痛もややあるので、筋肉をほぐすにも軽い里山が良い。
この山は年に何度も散歩がてらに歩いているが、MICKEYは2006年12月以来の久々。

10;50
能勢電の多田駅前を出発。今日の取り付きは、上野芝霊園の少しはずれの住宅地の
間にある草がやや生えている道を登り進む。「ここ、なんとなく覚えている。」とMICKEY。
「ここは2006年に登ったルートの1つ南のルートで、一度一緒に散歩に来たはず」と僕。 
   
 ここまでは車も来られ幅が・・・ ここからは徒歩のみ 
「ゴルフ場の上に鳥居や祠があるところは知らないだろう。今日はそこにも連れて行くよ。」
車が通れるくらいの道はすぐに狭くなる。振り返ると展望があるが、木々が成長して以前
ほどはスカッと見えない。「ああ、ここも覚えている。来た来た」とMICKEY。

ここからは道も細くなり冬枯れの里山の雰囲気がたっぷり。「静かでいいね」とMICKEY。
鳥の声が沢山聞こえる。早歩きするとやはり暑い。二人ともTシャツになった。
   
 冬枯れの静かなルート お地蔵様にもお餅が 
11:25
鼓滝の方(今日よりもう少し南側)から登ったときの登山道との合流点。
お地蔵様には、お正月らしくみかんやお餅も供えてあった。
長尾山方面から沢筋を歩いて来たときのルートを右に見つつ進む。
稜線に出たとき、1人のご年配の男性が僕らの登ったルートを下られるところであった。
「今日は暑いですね」とダブルストックの男性。 
   
 鳥居や祠のあるところ 鳥居の後ろの岩上に祠 
ここから右(東)へ行き少し下ると鳥居と祠がある。MICKEYは初めて来たという。
「こんなところがあったなんて!」と驚くMICKEY。鳥居や祠、そしてお稲荷様?、井戸跡
などがある。「江戸300余年の間、信仰を集めた多田薬師のルーツ「石峰寺」跡は今だ
に山頂付近かそのまた先か良くわからないというけど、ここもそんな感じがあるだろう。
石柱に「八廣山 五社大神鎮座」とあるので「石峰寺」跡とは違うと思うけどね」と僕。
井戸跡の横の石柱には「御供水 神乃井水」とある。 
     
 井戸跡  「水があるよ」  「八廣山 五社大神鎮座」  鳥居の後ろにお稲荷様?
   
 岩上からの展望  舎羅林山の山頂
一番上の祠へ左の岩の間から登って行くMICKEY。僕も続く。そこは少し岩が平たくな
っていて西側の展望がきく。「春や秋はここでお弁当を食べても気持ちいいよ」と僕。
そのままトラバース気味に横移動して先ほど下って来た道に出で登り返して逆方向へと進
み山頂へと向かう。

11:50
舎羅林山 山頂。昔の記載では「沙羅林山(しやらりんさん)」と記す。
264.5mの山頂にあるケルンは来る度に高くなっている気がする。
「周囲の木々も成長したよねぇ。停止したままの開発地方面の展望が良かったのに」と
MICKEY。「もっと展望の良いのはこの先のピーク。そこも寄っていこうか」と僕。
   
展望岩場から  展望岩場には日の出表もある 
一旦北へと下りやや右の岩場へと5分も進めば、展望の利くピーク。
「ここの方が舎羅林山も国道方面も、開発地もよく見えるね」とMICKEY。

また冬枯れの里山道を歩き、住宅地へと出る。「こんな上まで家が出来てるわ!」と驚く
MICKEY。僕は良く知っていてもMICKEYがここへ抜けた頃はまだ山肌の斜面だった頃。 
   
 落ち葉を踏む音が良い  平野の住宅地に出た。
12:15
平野駅に出た。すぐ北にあるコーナンで花の苗を見て多田駅へと歩いて戻った(12:50)
2時間ほどのお手軽ハイク。空は予報通りどんよりと曇り始めた。夜からは雨という予報。
10,608歩、燃焼脂肪28.4g。「昨日の筋トレの筋肉もほぐれたかな。」と僕。
「ホントにお手軽だし静かだし良いわ。また違うルートで歩きましょう」とMICKEY。

★【メモ】★

京都の伏見にある石峰寺の現在の本尊は釈迦如来だが、創建当時は薬師如来だったという。
「摂津名所図会」等によると、その薬師如来は多田の沙羅林山(今は舎羅林山と書く)に
源満仲が建てた石峰寺の本尊と言われていたものらしい。
 沙羅林山石峰寺の本尊は戦火を避けるために地中に埋められ、その後、知る者もいなく
なり、行方が解らなくなっていたらしいが、江戸時代になって山腹に夜な夜な光が現れる
ので光源のあたりを掘ってみると石棺の中から薬師如来像が見つかったという。のちに、
この像を本尊として建てられたのが、今の京都伏見の石峰寺である。

「摂津名所図会」/寛政8年~10年(1796~98)に刊行された摂津国の観光案内書。
【巻之六 河辺郡(かはべのこおり)】
 【沙羅林山(しやらりんさん)】
 東多田村の上方にあり。山嶺より水晶を産す。昔村上天皇御宇天徳二年、満仲公伽藍を
 造営ありて、沙羅林山石峰寺と号し、本尊薬師仏を安ず。その後文永の頃兵火の為に諸
 堂回禄の災に及ぶ。その時寺僧この本尊を石函に蔵め山中に埋む。それより星露累りて
 これをしるものなし。慶長元年の春、沙羅林山に夜々光あり。これを怪しみその光源を
 穿ちしかは一つの石函を得たり。蓋に沙羅林山石峰寺薬師如来の銘あり。ゆゑに一宇を
 営みて安置す。同八年に庵主宗玄といふ者に夢の告あり。郡近き所に寺を遷したばあま
 ねく人民を化益せんと宣ふ。宗玄仏告に任せてみづから背に負ふて都に立り、五条わた
 り因幡堂にしばらく安置し、程なく六条坊門五粂橋の東若宮八橘宮の社内、小堂を営み
 て石峯寺と号す。宝永の頃黄檗山千呆和尚常にここに詣でて薬師仏尊信ありて日く、わ
 れすでに異国より日本へ渡り、黄檗山の祖席に司職する事ひとへにこの霊尊の応験なり
 とて、膽礼恭敬せられければ、たちまち公命によつて山城国大和大路稲荷の南に寺地を
 賜り、百丈山石峯寺と号し、この尊容を遷し、沙羅林山の古迹を京師に止む。ことに近
 年石像の五百羅漢を鐫し山間に安置し、巍々たる浄刹と成つて昔の相を顕はせり。委し
 きは『都名所図会』に見えたり。

 本日のルート
 
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